私は日本でドイツ文学専攻だった。
独文・独語の学部生・院生は合わせて十数名程度しかおらず、旧制松本高校の望月市恵先生からの伝統があり、めっちゃスパルタ。そもそも教養の終わり頃に学部専攻の志望を出して面接を受けるのだけれど、歓迎ムードはゼロで、「あなた、本当にやりたいの?志望書に書いた事は本当なの?」と、かなり問い詰められた。
人数が少なくて「全学年、下手すると院生まで一緒に同じ授業」というのが沢山あったため、学部に上がりたての2年生は落ちこぼれで、学年が上がるにつれて成績もよくなる。
独文の必修単位だけで卒業できる位、必修ものが多かったので、人文学部の他の授業は一つも受けず、だから友達とも疎遠になり、只管ドイツ語漬けの生活。そもそも2年生が始まる前の春休みに、強制参加でタイピング練習させられるところから始まった。
一人の先生は2年生をいつも全員落としていたらしい。というか、履修届をもみ消していた。そうすると、次の年にもう一度受講しないといけないため、勉強量が増えるから。そうとは知らず、真剣に頑張ったのに。落第の記録を残さないのが彼の優しさだと上級生に言われて、のけぞった。
一人の先生の授業は、徹夜で予習しても足りないスピードで進み、予習分が尽きて答えられないと「このままなら、ぼくの授業はもう受けないで貰う」「もう除名だ」「処刑だ」などと叱責され、順番に当てられるのが本当に生きた心地がしなかった。
一人の先生に「あなたにはもう訊かない」と言われて、帰り道に泣きながら自転車を漕いだ事もあった。
冬休みに強制参加させられた特別コースは、トイレ休憩も満足に貰えない程、朝から夕方までの詰め込みが、一週間続いた。
それでも食らいつけば、1年生の教養第二外国語でABCから始めたドイツ語で卒論を書くまでになれるのだ。
除名先生には、卒論審査で初めて褒めて頂き、厳しい言葉を待ち受けていた私は耳を疑い、ふわふわと夢見心地で歩いて帰った。
そして誰も祝ってくれる人が来なかった孤独な卒業式の後、私を飲みに連れ出して下さって、その後はスパルタの陰に隠されていた温かい御心を沢山見せて頂いた。
卒業後、全く関係のない仕事をして、それはそれで楽しかったのだけれど、「いつかドイツに」という思いは常に心の底にあった。
それで私がしていたのは、
- 定休日が平日だったのをよい事に、休みの日には、ドイツ人の先生の授業にこっそり参加。実はそこには定年退職された先生も一人、潜りで学びに来ておられ、飽くなき向上心に刺激されて「私も!」と。
- ドイツ語の口の動きが失われないよう、ドイツ語の本を一人で音読。
- 単語暗記。
25歳になった時、突然焦った。
何か新しい事を始めて、一人前になるまでに10年はかかるだろう。
そこから更にベテランになるまでに、また10年はかかるだろう。
とすると、早く始めないと、ベテランになったらもう定年間近じゃない?!
また、「ドイツに行きたい」と言いながら動かなくなり、あわよくばと棚ぼたを待ち始めた私に業を煮やした除名先生に、「さち、お前堕落したな」と言われたのも、ガツンと堪えた。
そして色々な事が重なり、ドイツ医学留学したいと心を決めた。
ところがEU外国人枠というのは、どの大学でも数席しかなく、問い合わせた大学によっては「そこに数百人の志望者がある」と聞かされた。
書類審査のみ(+語学試験)で、母国が内戦などで勉学できないなどの事情がある人は優先されるとか。
学費が無料という事は、税金で賄われている訳なので、そう大盤振る舞いできないのは当然な訳で。
私のドイツ文学の成績というのは、前述のようにかなり特殊だった。そもそもAは、最終学年以外ではあり得なかったもの。
ところが英語の成績証明を出して貰ったら、それが授業ごとの並べ方だったので、例えば「ドイツ文学論」がAからCまで混在しているという、ムラだらけの成績に見える。
ドイツでは最終成績が大事らしいというのを見かけ、私は最終成績はオールAだったので、成績証明を学年ごとの並べ方にして欲しいと要求した。
別の書式で出して貰うには学部の教授会を通さねばならず、もの凄く荒れたらしい。「人文学部からドイツの医学部なんて、無理に決まっている。そんな可能性のない事に手を貸すなんて!」と、提議した私の除名先生は集中攻撃されたとか。でも、負けずに何とか通して下さった。
完成品を見て除名先生が、「これ、できてみたら、格好いいなあ!」としみじみと言って下さったのが忘れられない。
更に、外国では推薦状が結構ものを言うというのも見かけた。
でも外国語の推薦状なんて、百年待っても誰も書いてくれないに決まっている。なので、ドイツ人の先生にお願いして時間を取って貰い、私が書いて欲しい内容をあれこれ話し合いながら英文の推薦状を作成し、学部長にサインだけ頂けるように用意した。
勿論その先生からはドイツ語で推薦状を書いて頂き、役職者からと実際の指導者からの二通を用意できた。
大学によっては入学審査は1年に1度だし、医学部のあるドイツの大学のリストを貰いにわざわざ赤坂のドイツ文化会館まで行ったような時代。それぞれの大学にまずは用紙を請求して(国際返信用切手なんてものを添え)、必要書類を郵送する。気持ちはあっても、なかなか進まない。
会う度に「いつ行くんや?今年か?来年か?」などと言う親戚もいて、悪気はないと判っていても、いつも傷付いた。
入学許可が届いた時、除名先生に電話したら、全く信じて貰えなかった。
「・・・さち、よく読めー」
「でも、Zulassungsbescheidって書いてあります」
「ふーん、それなら、まあ、そうなのかな・・・(全く納得していない口調)」と暫く話し、電話を切る時に、
「・・・さち、もう一度よく読め?」
で、その手紙をコピーして送り、ようやく「おめでとう!」と言って頂けたのだった。
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須澤先生、フランク、望月先生、大澤先生、中野先生、小松先生、松沢先生、マンデルアルツ夫妻先生、株丹先生、リサさん、本当に本当にお世話になりました。